益子焼を歴史で紐解く。多彩な作品が花開いた益子焼、その背景とは?

益子焼を歴史で紐解く。多彩な作品が花開いた益子焼、その背景とは?


益子焼は、世界的に有名な日本の陶芸です。栃木県南西部に位置する人口2万3000人ほどの静かな益子町には、日本全国・世界各国から集まった400名を超える陶芸家が日夜技を競い合っています。

濱田庄司に代表される伝統的な陶芸から、モダンでかわいい和食器まで多彩な作品で多くのファンを虜にする益子焼。その魅力を歴史から紐解きます。

萩原芳典さんの益子焼
萩原芳典さんのモダンな益子焼(益子陶庫にて)

 

江戸から明治~益子焼・発展の歴史

益子町周辺では、推定奈良時代の窯跡が見つかるなど古い製陶の痕跡もありますが、今日の益子焼につながる歴史は江戸末期の大塚啓三郎に始まります。

窯が開かれたのは、江戸時代末期の嘉永年間(1853年または52年)。以来、益子焼は160年ほどの歴史を刻んでいます。

益子濱田庄司邸の登り窯
益子濱田庄司邸の登り窯

 

陶祖・大塚啓三郎から始まる益子焼

益子焼は、笠間(茨城県)の出身だった大塚啓三郎が益子に移り良い陶土を発見したことから始まります。

当初は、火鉢や壺、擂鉢、水瓶など、当時の日常生活に密着した品物が生産の主体でした。笠間焼の流れを汲む職人の活躍や、江戸に近い地の利から、生産量が順調に増えていきました。

 

日常雑器の生産で器の一大産地に発展

明治に入ってもその歴史は続き、益子は、関東一円をマーケットとする日用陶器の一大産地へと発展します。

益子焼山水土瓶(皆川マス絵付け)
皆川マス絵付けの山水土瓶(reference by awahei.com

 

明治末期から大正~益子焼『冬の時代』と震災景気

益子焼は江戸時代に始まり常に順風満帆だったわけではありません。明治末期から『冬の時代』ともいえるほど生産量が落ちた時期がありました。

 

益子焼・冬の時代

明治維新からの文明開化が人々の暮らしにも及び、ライフスタイルが変化してくると、次第に益子焼の製品の人気は落ちていきました。特に、大消費地である東京での近代化のスピードは速く、より完成度の高い京焼などの台頭もあって、益子焼は一時「冬の時代」を迎えることとなりました。

 

震災景気に沸く

関東大震災(1923年)が起こると事態は一変しました。震災で破壊された日用品、例えば味噌や砂糖を入れる蓋付きの壺などが、飛ぶように売れたのです。衰退しかけていた益子焼の復活のきっかけとなりました。

益子焼の壺
益子焼の壺イメージ(reference by FC2ブログ

 

1924年~巨匠・濱田庄司がもたらしたターニングポイント

現在、益子の陶芸家に益子焼とは何かという話を聞くと必ず『濱田庄司』の名前が上がります。

日用雑器の生産が主だった益子焼は、濱田庄司の活躍により世界的にも芸術品として認められるようになってきます。益子焼のもう一人の陶祖・濱田庄司について詳しくご紹介いたします。

濱田庄司
濱田庄司(reference by 和心工房

 

陶芸家・濱田庄司

濱田庄司は、1894年川崎生まれの陶芸家です。日本各地やイギリスで修練を積み、最終的に益子に居を構えて、83歳で没するまで数多くの優れた作品を生み続けました。

濱田庄司の青釉黒流描大鉢
濱田庄司の青釉黒流描大鉢(reference by exceite.ism

 

濱田庄司は初の人間国宝の認定者であり、文化勲章受章者でもあります。まさに巨匠というべき存在であり、益子焼のみならず、近代日本を代表する陶芸家の一人です。

濱田庄司が益子で作陶を開始したのは、震災の明くる年・1924年。大きなターニングポイントでした。日用品一辺倒だった益子焼が、花器・茶器などの工芸品、更には芸術の領域へと拡大していく歴史が、この時始まったのです。

濱田庄司の赤絵丸紋花瓶
濱田庄司の赤絵丸紋花瓶(reference by exceite.ism

 

民藝運動(民芸運動)と濱田庄司~現在につながる益子焼の歩み

濱田庄司が益子で作陶を開始した頃、日本では民藝運動の機運が高まっていました。

民藝運動とは柳宗悦(やなぎむねよし)を中心に、日常の暮らしの中で使われてきた手仕事の品から素朴で力強い美しさを見出す運動です。つまり「用の美」の追求にあります。

柳宗悦
柳宗悦(reference by 和心工房
濱田庄司は、民芸運動の中心人物の一人であり、発展期以降の益子焼の「用の美」に、前々から高い評価を与えていました。その活動は、やがて国内ばかりでなく海外にも広く伝えられ、益子焼は民藝の代表格となっていきます。

もう一人の「ショウジ」から始まる歴史~加守田章二の1959年

濱田庄司の活躍によって益子焼の知名度は全国区となり、時の民芸ブームにも乗って、大いに繁栄しました。そんな中、益子焼の歴史にとって忘れてはならない、もう一人の人物が現れました。陶芸界の寵児・鬼才と謳われた加守田章二(かもだしょうじ)です。

 

陶芸家・加守田章二

1959年に益子に「アトリエ」を構えた加守田章二は、益子焼の伝統や民芸の考え方に敬意を払いつつも、あくまで、作家個人としての作品づくりを追及しました。

加守田章二の彩陶壺
加守田章二の彩陶壺(reference by 岩手県立美術館
この生き方は、陶芸を志す新しい世代に大きな影響を与えました。いつしか、若い陶芸家が続々と集まるようになり、益子焼は、今日に続く新たな歴史の段階を迎えたのです。

 

益子焼の今

ぽってりとした肉厚の土の感触。犬毛筆で色づけされた鉄釉から生まれる、漆黒や飴色・赤茶色の力強い色彩。それは、親しい友だちとの、フランクで気取りのない付き合いのようなイメージです。

益子焼の味わいの基本は、今も変わってはいません。こうした素朴さと温かみを残しながら、若い作家も多く活躍しています。

モダンでかわいい器やカラフルな陶器、薄くて軽い器など、濱田庄司と加守田章二の作風と違った新しい益子焼のスタイルが生まれています。
西村俊彦のモダンな和食器
西村俊彦のモダンな和食器

 

まとめ

益子焼が160年の歴史というと長いようですが、焼物の産地の歴史としては実はとても短いのです。有田焼は2016年誕生400周年、信楽焼は1000年以上の歴史があります。

国内外から創意あふれる作家たちが益子に集まってくるのも、ある意味でしがらみのない進取の気風を歓迎する益子焼の風土があってこそかもしれません。

新しい作品が次々生まれる今こそが、もしかすると益子焼の真の発展期と言えるかもしれません。

 

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